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サーフィンとの出会いで自分の人生がどう変わったか

 

あまり書かない個人的なことを書きます。

サーフィンとの出会いと、その時の暗黒時代のことです。

 

サーフィンを始めたのは21歳だったと記憶しています。

 

僕はその1年前に自衛隊を退職しました。

自衛隊という仕事について

自衛隊という仕事は僕にとって正義のヒーローみたいなもので、陸自で働く自分がとても好きでした。

「胸を張れる仕事」っていう言葉が世の中には溢れかえっています。

職業に貴賎なし、という平等主義の強い日本ですがやはり個人的に自衛隊は世界一胸の張れる仕事でした。

「one for all, all for one」を徹底した組織でありつつも、個人の人格を尊重しようという姿勢が自衛隊の一番好きなところでした。

国民を守るという非常に責任のある仕事の説明を1週間に渡り座学で勉強し責任感を学びました。

小銃を渡される銃授与式で大声で自分の名前を呼ばれた時に、初めて自分の名前を呼ばれた気分になり、一瞬の雷が落ちたような感覚と共に涙声で返事をした覚えがあります。

 

施設科という職種で地雷処理や、土木工事全般、架橋、渡河等の訓練を受けました。

配属された中隊では英語の通訳を任され、中隊長にくっつき米軍と連携して仕事をするという非常にエキサイティングな世界でした。

しかしながら、怪我、故障も重なり通院することになり、体力的に精神的に自衛隊の仕事・生活に付いていくことができずに焦りばかりが先行してしまいました。

先輩、同期の励ましを受けながらも、夢だったレンジャー過程への道が閉ざされたこと、バツの付いた隊員は国際貢献のミッションに付くことはできないんだな、と病院で絶望したことが今でも思い出せます。

 

結果的に陸上自衛隊は退職をしました。

今になってしまえば、20歳そこらの若者が仕事を失っただけと客観的に認識できます。

しかし、若さゆえに天職と思っていた自衛隊の仕事を失ったショックは非常に大きく、僕はその後1年間ほど自宅に篭り風呂にも入らず誰にも会わずの生活を続けました。

希望が持てなかった過去の自分について

ひたすら本を読み続け、明け方までミリタリー関連のゲームをやる。昼過ぎに起き、また本を読みゲームをやる。という生活を続けました。

 

その時になぜ本を読み漁ったか、今になってみれば分かります。本の中の他人のストーリーに希望の光を探し続けていたんだと思います。

とくに好きだったのは落語の本です。

落語は「ヒーローになれなかったダメなやつ」が主人公です。

ダメなやつでいい、しょうがないんだよと若い自分に言い聞かせるには、とにかく時間が必要でした。

諦めるということは、嫌なことを受け入れるということですが、当時は受け入れられませんでした。

 

夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎるのを実家の窓から眺めていました。

本も増え、髪もヒゲも伸びきっていました。

春になるとようやく活力が湧いてきて、重い腰をあげる準備ができました。

増え過ぎた体重と腰痛を抱えながらも、まずは顔を上げようという気分で髪を切り就職活動をしました。

 

就職後も、まだ抑えきれない自衛隊への想いがありました。

たびたび夢の中で中隊長に敬礼する自分の姿や、発破手順を大声で確認する自分の姿が出てきました。

 

「そろそろ諦めて前を向こう、そのためには新しい何かを始めなくてはいけない。」

 

しかし、僕の住んでいた田舎の街では「希望の何か」を探すのは非常に難しかったです。

仕事以外にあるものといえば、パチンコ、キャバクラ、場末のビリヤード、釣りくらい。

老人の暮らしと、僕の暮らしはどう違うんだ?という疑問にぶち当たりました。

死なないために新しい希望を見つけるしかないと奮起した

自分を変えるには今までやったことのないことをやろう。

僕が一番嫌いだった物を思い出そう。

僕が一番嫌いだった人を思い出そう。

僕が一番嫌いだったのは、オーストラリアで知り合ったサーファー集団だったことに気づきました。

 

当時のサーファー集団については、失礼ながらこう思っていました。

「貧乏で、向上心がなく、語学の勉強もせずに、その日暮らしでサーフィンばかりして過ごしている。」

 

僕は彼らが大嫌いだったのを思い出しました、絶対にこうはなりたくないと思っていました。

 

しかし、じゃあ今の自分は一体どうなんだよ?

夢すら叶えられずに、惨めに引きこもって、バカみたいな夢にうなされている。

 

じゃあどうせなら、とことん落ちるところまで落ちてみるのもありじゃないのか?

 

どうせもう死んだも同然の人生なんだろう。魂は自衛隊に置いてきた。

大嫌いだったサーフィンを1度やってから死ねばいいじゃないか。

サーファーとの出会い

地元の先輩にサーフショップを紹介していただき、サーフィン用具一式を買い揃えてサーフィンを始めました。

サーフショップにたむろする人たちも、サーフショップのオーナーもいい加減な人ばかりでした。

 

車でお店に来てるにも関わらず、ビールを飲む。

夜にも関わらず、大声で馬鹿話をする。

僕が「飲酒運転になってしまいますので」と断ると「随分と真面目だなおい」と笑われ困惑しました。

 

初体験のサーフィンは1度も立てずに荒波に揉まれ、口から鼻から嫌というほど海水を飲み、海から上がる頃には全身に痛みを覚えるほどの疲労感に包まれました。

 

しかし、海に入って感じる日差しってなんでこんなに気持ちが良いのだろう。

空はなんでこんなに広いんだろう。

今まで悩んでいたことはなんだったんだろう。

サーフィンてなんでこんなに苦しいんだろう。

サーフィンてなんでこんなに楽しいんだろう。

 

また、サーフショップでビールを飲んで酔っ払っていた彼らも、海に入ると別人格のようにストイックに波を乗りこなし、とても輝いて見える気がしました。

 

今まで持っていたサーファーへの偏見を、たった一回で変えてしまう日でした。

 

それからは波に乗れないのが悔しく、毎週海に通うようになりました。

1年目から冬用のサーフィン装備を揃え、本格的に冬もサーフィンをするようになりました。

ストイックに海と向き合うことで、少しずつ少しずつ上達するサーフィンの魅力にどんどんハマっていきました。

 

2年目からはコンスタントに波を掴めるようになり、不細工ながらもそれなりに板に立てるようになりました。

この頃からサーフィンに夢中になり「サーファーとしての自分」がどんどん好きになっていきました。

 

4年目で海外の波にも挑戦したくなり、仕事を辞めて半年間アジアを貧乏旅行し各地でサーフィンをしました。

 

バリ、ロンボク、香港、ベトナム、インドで見た波と、各地で出会ったサーファーと交わしたビールの数々は今でも僕の大切な思い出となっています。

「もう自衛隊は諦めよう、新しい希望を見つけたじゃないか。」という気になるためには退職してから5年の月日が必要でした。

 

サーファーになってしまった

今ではもうサーフィンを始めて13年。すっかりサーフィンに魅了されてしまいました。

サーフィンをやりたいという人にサーフィンを教えられるくらいの技術を身につけ、頭でも体でもサーフィンを理解できるようになりました。

 

下半身麻痺の障がい者のサーフィンのサポートをしたり、小さい子供にサーフィンの楽しさを教えることもできるようになりました。

少し悪いことをして落ち込んでいる高校生をサーフィンに連れ出し、「こういう生き方もあるよ」と微力ながら背中を押すこともできるようになりました。

 

体も心もすっかり、あの時大嫌いだったサーファーになってしまいました。

さて、お先真っ暗で落ち込んでいた21歳の僕になんて声をかけるでしょうか?

断られることが分かっていてビールを差し出すかも知れません。サーファーは波も幸せも分け合うことができる人種ですから。

とりあえず海でも行こうぜって誘うかも知れません。海に行けば解決することがあるって、今では分かりました。

 

サーフィンに出会って、すっかり人格も人生も変わってしまったようですね。

波の一つ一つが全て違うように、サーフィンの一つ一つも違います。

僕たちはその違いを「スタイル」という言葉を使って表します。

 

サーフィンのスタイルは、サーファーの人生を映し出す鏡のようなものだと僕は思います。

 

最後に、僕の大好きなサーファーの言葉を紹介します。

人類ができることと言えば、現在こうして生きていられることを幸運と感じ、地球上で生起している数限りない事象を前にして謙虚たること、そういった思いとともに缶ビールを空けることくらいである。

リラックスしようではないか。地球上にいることをよしとしようではないか。
最初は何事にも混乱があるだろう。
でも、それゆえに何度も何度も学びなおす契機が訪れるのであり、自分にぴったりとした生き方を見つけられるようにもなるのである

駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

一人でも多くの方がサーフィンの楽しさと魅力に触れていただければ、僕はとても嬉しいです。